#5 民主主義と全体主義(1)
February 2, 2026
民主主義のすぐ後ろには、影絵のようにファシズムがついてくる(鶴見俊輔・哲学者)



ぼくたちの前にあるのは、夏の花盛りではなく、凍りついた暗闇と過酷さが支配する極北の夜です。いま外面的にどのグループが勝っても、そうです。というのも、なにもないところでは、カイザーだけでなく、プロレタリアートも権利を失っているからです。この夜は、ゆっくりと明けることでしょう。そのとき、いま見るところでは、こんなにも元気よくその春が咲き乱れている人たちのなかで、誰がまだ生きているでしょうか。そして、みなさん一人一人は、そのとき内面的にどうなっているでしょうか。気難しくなっているか、俗物になる、つまり世界と仕事を簡単に、いい加減に受け入れるか。あるいは、第三の、めずらしくないものとしての神秘的な現世逃避か(ウェーバー, (2018, pp. 214–215))。
「距離感を失う」ことは、純粋にそれだけで、どんな政治家にとっても大罪の一つです。そして、ドイツの若い知識人のあいだでこうした資質が育成されるとき、彼らは政治的無能力という判決を受けます。というのも、熱い情熱とクールな目測能力が互いに一つの魂のなかでいかにまとめ上げることができるかが、まさに問題だからです(ウェーバー, (2018, p. 180))。
なにごとかにコミットしない態度は、現実の権力ではなく、権力のきらびやかな仮象を追求させやすく、また無責任は権力をただそれ自身のために、内容となる目的を抜きにして享受させやすいのです。権力はあらゆる政治の不可避の手段であり、また権力の追求はあらゆる政治の原動力です。そうであるにもかかわらず、あるいはむしろ、まさにそうであるがゆえに、成り上がり者がやるように権力をふりかざしたり、虚栄を張って権力感情に自己陶酔したり、そもそも純粋に権力それ自身を崇拝したりすること以上に、政治的な力を破滅的に歪めてしまうものはないのです(ウェーバー, (2018, pp. 181–182))。
剥き出しの「権力政治家(Machipolitiker)」というのがいます。ドイツでも熱心に行われているあるカルトが、これを神聖化しようとしている。こうした「権力政治家」は力強い印象を与えるかもしれませんが、しかし実際のところ空度で無意味に終わります。その点で「権力政治」の批判者たちは完全に正しい。こうした信条の持ち主が突然、内面的に崩壊するということに直面して、こうした威張りちらした、しかしまったくの空虚なジェスチャーの背後に、いかなる内面的な弱さと無力さが隠されているかを、ぼくたちは身をもって知ることができました。この空虚なジェスチャーは、人間の行為の意味に対する、きわめて貧相で、表層的な尊大さの所産です。すべての行い、特に政治的な行いは、実のところ悲劇に巻き込まれています。この尊大さは、そうした悲劇についての自覚とは、まったく無関係なのです(ウェーバー, (2018, pp. 181–182))。
政治というのは、硬い板に力強く、ゆっくりと穴をあけていく作業です。情熱と目測能力を同時にもちながら掘るのです。この世界で何度でも不可能なことに手を伸ばさなかったとしたら、人は可能なことすら成し遂げることはなかった。これはもちろん絶対に正しいし、歴史的な経験はすべてこのことを証明しています。しかし、それをなすことができる人は、導く人でなければならず、またそれだけでなくーとても簡単な意味においてー英雄でなければならないのです。(原文改行)そして、導く人でも英雄でもない人も、あらゆる希望がだめになってももちこたえるハートの強さで、いますぐ武装しなければなりません。さもなければ、今日可能なことすら実現できない。自分の立っているところから見て、自分が世界のために差し出そうとするものに対して、この世界があまりに愚かでゲスだとしても、それで心が折れてしまうことなく、こうしたことすべてに対してすら「それでも」と言うことができる自信のある人だけが、政治への「使命」をもっているのです(ウェーバー, (2018, pp. 217–218))。
合法的に権力を所有した者が、すべての人に平等に開かれていたはずの合法性の門を自らの背後で閉ざしてしまう危険が起こりうるのである。法を手にする者は、つねに法以上のものをも手にすることができる。価値中立的な法秩序は、憲法の敵が合法的手段を通じて権力を奪取する「合法的革命」を防ぐことはできない。単なる合法性はその中立性において自殺するのである(大竹 (2014, p. 189))。

むしろ例外状態のためには、原理的に無制約な権限、すなわち現行秩序全体の停止が必要である。この例外状態が現れたならば、国家は存続するのに対し、法は後退するのは明らかである。例外状態とは、いつでも無政府状態や混沌とは全く別の物だから、法秩序は存在しないとしても、法学的意味では、相変わらず秩序は存在する。ここでは、国家の存在は法規範の効力に対して疑いなく優位する。決定は、あらゆる規範的制約から解き放たれ、本来の意味で絶対的になる。例外事例では、いわゆる自己保存権に従い、国家は法を停止する(シュミット (2024, pp. 20–21))。
本書の主題は、次の点にある。すなわち近代人は、個人に安定をあたえると同時にかれを束縛していた前個人的社会の総からは自由になったが、個人的自我の実現、すなわち個人の知的な、感情的な、また感覚的な諸能力の表現という積極的な意味における自由は、まだ獲得していないということである。自由は近代人に独立と合理性とをあたえたが、一方個人を孤独におとしいれ、そのため個人を不安な無力なものにした。この孤独はたえがたいものである。かれは自由の重荷からのがれて新しい依存と従属を求めるか、あるいは人間の独自性と個性とにもとづいた積極的な自由の完全な実現に進むかの二者択一に迫られる。本書は予測よりもむしろ診断──解決よりもむしろ分析──ではあるが、その結果はわれわれの行為の進路に一つの方向をあたえている。なぜなら、全体主義がなぜ自由から逃避しようとするのかを理解することが、全体主義的な力を征服しようとするすべての行為の前提であるから(フロム (1951, p. 4))。

全体主義運動は、いかなる理由からであれ政治的組織を要求する大衆が存在するところならばどこでも可能である。大衆は共通の利害で結ばれていないし、特定の達成可能な有限の目標を設定する個別的な階級意識を全く持たない。「大衆」という表現は、人数が多すぎるか公的問題に無関心すぎるかのために、人々がともに経験しともに管理する世界に対する共通の利害を基盤とする組織、すなわち政党、利益団体・・・・労働組合・・・などに自らを構成することをしない人々の集団であればどんな集団にも当てはまるし、またそのような集団についてのみ当てはまる(アーレント (1981, vols. 3, 10))